快挙をたたえられ、ヒーローとなるはずだった常長。
しかし、時代の運命で通商交渉に失敗し、失意のうちに帰国します。
そんな常長を、川崎町の自然は、変わらずに迎えたことでしょう。
フェリペ3世は、イエズス会(ソテロのフランシスコ会と対立していた)や、インディアス顧問会議から日本の禁教令やキリシタン弾圧、ソテロ報告の中のウソや政宗公が地方の領主であることなど不利な情報を伝えられており、結局貿易を許可しませんでした。
スペインは通商の条件としてキリスト教への改宗を求めたといわれ、洗礼を受けることで交渉成功をめざした常長。それにも関わらず帰国を命じられた胸の内は、いかばかりだったでしょうか。
1617年7月4日、ついに常長はヨーロッパを離れ、メキシコへと向かっています。アカプルコに迎えにきたサン・ファン・バウティスタ号でフィリピンを経由、ソテロはマニラに留まり、常長だけが帰国します。
常長が仙台に戻ったのは1620年9月22日。出帆から7年の月日が流れ、すでに政宗公も幕府の厳しい禁教令に従わざるを得ず、政宗公は常長に謹慎を申し渡します。持ち帰った品々も没収されました。
このため慶長遣欧使節は、その後250年間忘れ去られてしまい、明治維新を経て岩倉具視の使節がベネツィアで資料を見せられ、ようやくその業績に光があてられるのです。
世界情勢の中で、慶長遣欧使節は失敗する運命だったのかもしれません。しかしアジアの植民地化をめざしていた世界最強のスペインを相手に、堂々と交渉に臨んだ支倉常長の働きは、まさに歴史的快挙です。
帰国後の常長は現在の川崎町支倉の地に戻った後に病死したとも伝えられています。
常長の墓は宮城県など数ヵ所にあり、川崎町円福寺と仙台市光明寺の碑には「五十一歳没」、大郷町の碑には「八十四歳没」と刻まれ、ほか現・岩手県奥州市水沢区の領地内に埋葬されたとの説もあります。
いずれが常長の墓なのか、晩年をどのように過ごしたか...いまも謎のままです。