かわさきあそび特別号「常長と川崎町」

使節任命~渡航「政宗公の密命を胸に、太平洋・大西洋を渡った支倉六右衛門常長。」

中級武士の常長が、なぜ遣欧使節に選ばれたかについては諸説があります。
しかし常長がヨーロッパへと渡航し、世界中に領国をもつ大国スペインと
通商交渉を行った史実は、世界史上の快挙として輝いています。

サン・ファン・バウティスタ号と使者・支倉常長

1613年10月28日。サン・ファン・バウティスタ号(洗礼者聖ヨハネの意味)は、牡鹿郡月浦(現・石巻市)を出帆します。全長約55m、幅約11m、排水量500t は当時、国内最大級の帆船でした。

乗員は船の建造と航海を指揮したスペイン提督ビスカイノ、遣欧使節の派遣を政宗公に進言し常長とともに大使に任ぜられた宣教師ソテロ、日本人のリーダーが支倉六右衛門常長。そして幕府・伊達家の者とスペイン人船員、商人など計180余名。常長43歳のことです。

支倉常長像
支倉常長像 ヨーロッパから持ち帰った自身の肖像画。黒い服に身を包み、ロザリオを手に十字架のキリストに祈りをささげています。実在の日本人を描いた油絵としては最古の作品といわれます。(国宝・仙台市博物館蔵)
サン・ファン・バウティスタ号建造現場
サン・ファン・バウティスタ号建造現場での様子を再現したもの。(宮城県慶長使節船ミュージアム提供)
支倉常長(左側) 政宗公の名代として、日本人一行を取り仕切っていました。
ルイス・ソテロ(中央右側) キリスト教を広めるスペイン人宣教師。語学に秀で、慶長遣欧使節を政宗公に進言したといわれます。
セバスチャン・ビスカイノ(右) スペイン大使。日本の東方沖にある金・銀島をさがすのが目的でした。太平洋横断航海にはスペインの操船技術が不可欠でした。

天下取りの野望か大地震・津波の復興策か

慶長遣欧使節の目的は、宣教師の派遣依頼とメキシコ(スペイン領)との通商許可を得ることでした。大国スペインとつながり、その軍事力を後ろ盾に討幕の機会をうかがうためだったというのです。

出帆から約90日、メキシコに到着した使節一行のうち、商人たちの大部分はメキシコに留まり、常長ら約30名が4ヵ月半後、スペイン艦隊に乗りかえてヨーロッパへと向かっています。

慶長遣欧使節の航海ルート

慶長遣欧使節の航海ルート
1613年 10月28日月浦出帆
1614年 1月25日アカプルコ着
1614年 12月5日頃マドリード着
1615年 10月25日ローマ着
1616年 1月7日ローマ発
1617年 7月4日 セビリア発
1618年 4月2日アカプルコ発
1618年 8月10日頃マニラ着
1620年 9月20日頃仙台着

政宗公の名代としてスペイン国王・ローマ教皇に謁見

スペイン到着は1614年10月5日で、ソテロの故郷セビリアに立ち寄った後、マドリード入りし、翌年1月30日、ついにスペイン国王フェリペ3世への謁見を果たします。
常長はその場で「宣教師派遣とメキシコとの貿易を希望する」旨が書かれた政宗の書状を渡しますが、国王の許可が得られぬまま一行は8ヵ月間をマドリードで過ごしています。

この間に常長は洗礼を受けて、国王の信頼を得ようとします。洗礼名は国王と聖人の名前を冠した「ドン・フィリッポ・フランシスコ・ファシクラ・ロクエモン」でした。

常長は交渉を進めるため、さらにイタリアへと向かいます。
10月29日、ローマ入市の行進を行い、11月3日に教皇パウロ五世の公的な謁見式に臨んでいます。謁見式では、常長は貴族位を受け、常長を含む8名にローマ市公民権が授与されるなど大歓迎を受けています。

スペインでの支倉常長の様子
スペインでの支倉常長の様子を再現。(宮城県慶長使節船ミュージアム提供)
ローマ教皇パウロ5世像
ローマ教皇パウロ5世像 常長像とともに使節が持ち帰った肖像画。(国宝・仙台市博物館蔵)
ローマ市公民権証書
ローマ市公民権証書 羊皮紙製で、上部左右に7つの紋章を並べ、左上に支倉家の紋章「逆卍に違い矢」が描かれています。 ラテン語で「支倉常長にローマ市の公民権を与え、貴族に加える」ことが金泥で書かれています。使節一行がローマでたいへんな歓迎を受けたことがわかります。(国宝・仙台市博物館蔵)
  • 写真協力/仙台市博物館、青葉城資料展示館、宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)
  • 参考文献/「仙台の歴史」宝文堂、「ローマの支倉常長と南蛮文化」仙台市博物館、「支倉常長物語」川崎町教育委員会
  • 文責/川崎町

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