400年前、政宗公の使者として太平洋・大西洋を渡り、
日本初となる通商外交の国際舞台で活躍した人、それが「支倉常長」です。
川崎町は、この世界史に名を残す支倉常長のふるさとです。
1571年(※)、支倉常長は出羽国置賜郡立石村(現在の山形県米沢市立石)で、米沢伊達家・中級家臣の支倉常成(つねなり)の子に生まれました。
時は戦国の世となり、この2年後には織田信長が室町幕府を滅ぼしています。
※常長の出生を「1570年ごろ」とする説もあります。
常長の幼名は与市(のち五郎左衛門~六右衛門)といい、父の支倉常成は、伊達政宗公の父・伊達輝宗公に仕えていました。常長が生まれたとき政宗公は五歳でした。
常長の父の兄・支倉紀伊守時正に子がなかったため、父常成は常長を7歳のときに時正の養子にしています。
そして義父・時正が支倉村に領地替えとなり、現在の川崎町支倉地区の「上楯城」に移ります。
こうして支倉常長は、その少年時代を支倉村の美しい自然の中で過ごすことになります。
上楯城は、養祖父の支倉常正が1545年に築城した連郭式(本丸・二の丸・三の丸を直線的に並べた形式)の山城で、現在も土塁や空堀の跡が残されています。川崎町の豊かな自然の中、常長は野山を駆けまわる元気な子として育ったことでしょう。
常長12歳のころ、織田信長が本能寺の変で自害し、その5年後には豊臣秀吉が西日本を支配しました。
常長は18歳ごろに初陣を迎え、伊達三傑と呼ばれた伊達家の重臣・茂庭綱元に従い相馬軍と戦いました。20歳のときに政宗公の小田原参陣にも従い、また「行路偵察」の大任を果たしてその情報収集能力を発揮したといわれています。
常長はその後も、葛西・大崎一揆での宮崎城攻めで政宗公の使いを果たします。
1592年、太閤秀吉は朝鮮征伐(文禄の役)のため、配下の武将の連合軍14万を朝鮮半島に送り込みます。政宗公も三千の軍勢を率いて出兵し、常長も義父とともに従軍して、中級家臣ながら「御手明衆(おてあきしゅう)」(※)20名のなかの一人に列せられています。
※「御手明衆」は、伊達家臣から、政宗公が選んだ「特別な命令を遂行する」ための部隊。
連合軍の中で政宗軍は「派手な出で立ち」が注目され、その姿が〝伊達者〟の語源になったといわれます。この朝鮮出兵でも常長は情報収集などの面で活躍したといわれています。
1596年、義父時正に嫡男が生まれたことから、常長は政宗公に本家と対等な分家を認められています。
しかし実父常成は、以前に起こした鍋丸事件(川崎城の砂金氏との領地争い)がもとで切腹となり、常長もその連座責任を問われ、一時は追放処分となっています。